昭和40年06月12日 夜の御理解



 信心が一段一段進んでいくということは、信心が段々進んでいくということなのですけれど、いかにもこう、簡単のような一段一段と進んでいくという、しっかりと信心の稽古をしとかなければ、進む機会がきても進めない。ここんところをひとつ大事にしていかなけれいけんとね。今日、美登里会でございましたが、中に北野の堤さんのお話があっておりました。ここの総代さんです。先生、取り上げが始まりましたら、痔が悪くなってから、御用が頂きにくいと、どうぞ親先生にお取次しといて下さいと。
 堤さんあんたこの前の取り入れんときにも、あんたどうかあったそが。あんとき先生からあんた御理解頂いたろうか何か。どげんじゃっただろうかち言って。まぁ(少々?)胸にはグスときただろうとこう、思うんですけどもね。なるほど毎日日参が日参というが、あれは一畳半の道を毎日、朝参りをして見える。ところが取り入れんときだけは、その、取り上げん時期だけ朝参りはでけない。
 なるほど、この前の前まではそうで良かった。やっぱり、十何年間かはそれで神様はおかげを下さったんだけども、もうボチボチ本当のことが解れとこう言うて下さる。本当のことじゃないけれど、ま本当のもっと本当のこと。今までが嘘だったてわけではない。もう一段進めよとゆう働きが始まっておるとゆうことが分かるけれど、それをね、そう神の声をその聞かなければです、一段進まないのですから。
 日頃毎日参っとというだけではいけないでしょう。まあ中学校だったら高校進むというときに、やはりその受験勉強もしておかなければならんが、その受験に合格しなければ、高校に入れないようなもの。一段一段進んでいくということ、そんなことだと私は思うんです。先日からも頂いておりますご理解の中に、なるほど教祖の神様はその、そうゆう段階のときにはね、いつも教会にお参りしてくことはできん。さぁうちに忙しいときがあったり、病人があったりして手が放せないようなときには、ね。
 そのときはお参りをしてくることができんから、常日頃に信心の稽古をしとけとおっしゃる。堤さんのやはり十年余りの信心はそれだったと思うですたいね。常日頃はもう一生懸命朝の御祈念にでもお参りをして信心の稽古をしておられた。それで結構あぁいうま、病、体の上にも、奇跡的なおかげを頂いて、商売の上にも一年一年蔵が立てまされていくようにおかげを頂いていかれて、商売の上にも何かと順調なおかげを頂き、人間関係の上にはもう、いうにさらなりであり、本当におかげを受けてきた。
 ところがここ二回も取り入れに限ってです、ね、取上げになったら、体が悪くなると。ね、もちろん取り入れでございますから忙しいからね、ご無礼しますと、もう言うことだけではいけん。その忙しい中にも信心を分からせて下さろうとする神様。いや忙しいしゅうなからなければ体験出来ない特別なおかげを下さろうとしておるということが分かるでしょうが。そういうところを私大事にして。
 神様、必ずそうゆう風に一段一段信心をですね、高めて下さろうとするとき、そうゆう求め方をなさるもんです。ね、堤さんにしてそれですから、他のうお互いの信心をですね、なかなかね、それがもう当たり前のように忙しければお参りもできん、神様忙しことはご承知だからと。というように割り切った時代からです、その忙しゅう、忙しい中からです、いや忙しゅうなからなければ分からない、忙しいなかにでもお参り思いをさせて頂ければです、分からない信心がある。
 神の用をたせば、氏子の用は神がたしてやると、おっしゃるような素晴らしいところになってこない。お徳の世界です。ね、ほうそんなそりゃ忙しかつでん、お参りをしてこりゃ、そのう神様は手伝って下さるじゃろうから、朝の御祈念に参らせて頂いたら、うちのには、加勢人が何人であっとったと、そうゆうものではない。ね、またそうゆうおかげを頂きましょうけれども、そうゆうものではない。
 もう堤さんの信心にはもうそこが分からなければならないということである。ね、いわゆる忙しかっても、忙しければ忙しいほどお参りをさせてもらわなければおられんという心がです、信心がもう育っておかなければならない。そこにはです、ね、忙しければ忙しい、でなからなければ頂けないところの、力も、ね、おかげも、そこを通らぬけなければ頂くことのできない信心があるということ。
 これはお互いが信心のどこに段階が現在至っておりましてもです、ね、あのお芝居に、忠臣蔵の山崎街道というところがありますね。(さだくろう?)が鉄砲で撃たれる場面ですよ。(さだくろう?)が花道からタッタッタッタとこの、あの破れ蛇の目傘をこう持ってね、花道から舞台に向かって走ってくるところがございますでしょ。ここでは傘のお知らせは安心とおっしゃる。
 確かに信心させて頂きよるとです。安心のおかげを頂くんですよ。もう大変な心配な、難儀な問題でお参りさせて頂いたら、まぁ先生がニコニコしてから、もう平気な顔でお届けさしゃった。もうそれだけで安心するといったような時代もあるでしょう。ね、先日なんかは、ある人がご主人が三日も出たきり帰ってきなさらん。しかも行った先がもうウイスキーを二人一本あげてしまって、もうベロベロに酔ってスクターで帰られて、それっきり、行方が分からない。
 さぁ大変もう本当にどこに突っ込んでおらんかというように、捜索願いをする前にあっちこっちその尋ね回ったけれども、からっきしその消息が分からない。とうとう三日目に、たまりかねてここにお願いにきた。それこそ涙を流してから、先生もう本当のことを言ってください。その方お姉さんがあることで山中で亡くなっておられる一、二年前亡くなっておられますからそう言う様に最悪の場合を感じるのですね。
 それで私が、その方に申しました。○○さん取り合えず、安心のおかげ頂けるように私はお願いすると。そしたら何かこう、肩の荷をおろしたように、先生があのように言うて下さったけん、どこか、無事でおるばいなという所だけは感じたんです。ね、安心が出来るようお願いしよと私は申しました。そりゃ、心配せんでよかがの、ちゃんと帰ってきてくださるじゃろと。
 とは言わなかったけれども、あそこで常日頃信心しとるとです、先生がそうゆうお取次ぎをして下さったというだけで、安心ができた。帰られたら二時間後に帰ってきた。やはり安心のおかげを、いやすぐ頂けるようにおくりあわせを頂いたということ。ね、そうゆう例えば安心から、ね、とにかく我武者羅までの表行でもさせていただいとる時に、不思議にモリモリと心の中に、おかげになるっというようなものを、これから湧いてくるです。我武者羅に。別に改まったからというわけでもない。
 磨いたからというわけでもない。一生懸命にお参りをしておるだけで、一生懸命修行でもしとるとです、そうゆうような一つの安心、まぁそれがいうなら破れ蛇の目傘ぐらいの安心じゃなかろうかね。ちょっとした雨ぐらいならぬれんでするけれども、大ぶりになったらぬれんならんというような、感じです。ね、定九郎的安心とでも申しましょうか。次にはね、あの、みなさん良くご覧になるなるでしょう、写真かなんかで。
 助六のお芝居。助六は紫の鉢巻きをして、ね、見事なきゃしゃな蛇の目を持って、こうやって、あのう(しつはた?)できまっておる写真がよくでています。ね、いわゆるその安心が、いうならばまぁ、アクセサリーていうか、飾りのようなもの。信心させて頂いて、本当に色々とおかげを頂いてから、ね。段々あの信心の雰囲気というか有り難さも家庭の中にも段々、みなぎってきて、もう信心させて頂いておるけん、いよいよというときには、神様におすがりすればよかけんで、といったような程度。
 というと何か起こってくると、青くなってしまうというような程度のもんです。ね、雨だけならよいけれども、風でも吹きあれて参りますともうじっとしておられないというような不安な状態になるという信心。助六的安心という、でも申しましょう。次にあの南国太平記ですか、松平いずの守ですね。とあのう、あれは何とか言いましたね。この(きせりはるの?)深さを、あの試す、(人かなとか?)言った。
 まるばしちゅうやは江戸のあの、江戸城の堀の深さを、じっと石を投げて、でその、石の沈むその度合いでですね、その堀の深さを試そうというわけなんです。ね、確かに雨は降っておった。ところが雨が降らなくなったから、とこう、手をやってみると上には自分の上に傘がさしかけてあったというわけなんです。
 それを知っておった松平いずの守は。そうゆう(ふうおこす?)とその(とりある?)事も知っておった。そう言う様に例えば堀の水の深さをはかりに来ておる事も知っておった。やはり敵のスパイである事を知っておったけれども、そこ松平いずの守が上からで傘をさしかけてやる。お前なにをしよるかというではなくてですね上から傘をさしかけてやると言う様な安心、いわゆる松平いずの守的ないわば安心とでも言をうかね。
 もう自分のことではない。人のことになる、安心が与えられるというような信心。人がぬれておるなら、人をぬらさんで済むだけの力をもった安心。そういうように、その安心の度合いでもです、和らぎおかげは、和らぎ喜ぶ心にあるとおっしゃるけれども、その和らぎ喜ぶ心にも度合がある。深さがある、広さがある。安心しとりますというても、定九郎的な助六的な、ね。
 丸橋ちゅうやといずのかみとの的な安心があるということ。果たして私達が頂いておるその、安心てはどうゆうな安心かと。今日、渡辺先生がお参りしておいてから、神様頂いたのが、んー『表行を心行とせよ』とゆうお知らせを頂いた。「表行を心行とせよ」もうこれは大変この深いものだと私は思うですね。それを頂いてから御教えというものは有り難いものだなぁとこう思った。
 表行というのは、形の行とこう言う。表面の表と書いちゃる。けれどもその、渡辺先生が頂いとるのは、こう、和行と感じられた。和らぐ行と。それを持って心行とせよ。ね、どんなにイラタダシイ時でも、その心の中に、波風が立たんですむような、それを金光様、金光様と心の中でなでさすりするするような思いでです、和らぎ喜ぶ心になることを願わして頂いての、その修行を持って心行としていけという風に、感じております。とこう言うておられる。
 それから言うわれてくるところの、和らぎ喜ぶ心である。今日私ここに座らせて頂いたのは、十時ごろだったでしょうか。和泉和泉と書いていずみと読むんですね。平和の和と泉という字です。二つあわせていずみと読むんです。それを白紙にですね、もうそれこそいともやさしい、その女の字のような字で、肉細い白紙に和に泉とこういた。そこで私すぐ頂いたとおりのことを、頭に心に感じたそのとおりの字をですね、
 まあ、心眼に頂いたような見事な字は書けませんけれども、そのその書体の字で、和泉と書いてここにおいておりましたら、あのうなんですか、あのう鳥栖の上野さんが参ってきた。奥さんが。あちらの主人がこの和の泉て言うんです。やっぱりわいずみて書いちゃる。ああ上野さんが参ってきよるけんばいな。(  ?  )ところが今日は手紙が娘からきておるもの、息子からきておるの。
 手紙を持って先生私は口不調方でございますから、いちいちお届けができませんから、娘の手紙、息子からの手紙を、いっぺん読んで見て下さいというてから、お届けするのです。その中には今、お父さんが椛目の御造営を目指してですね、もう大変お酒が好きなひとですけど、禁酒しておるということ。ところが先生有り難いことに、もう家族中がもう生き生きしてきたということ。
 以前はあのう、家族中のものが朝の御祈念のこの時間に一同がそろうて、その御神前に御祈念したと、そう言う様なことがこの頃はなくなってしもうとった。ところがつい先日前から、またそう言う様なおかげを頂いておりますと、お父さんはこげなん修行をしよんなさるとゆうこと、娘や息子が知ったらです、長崎にはむすめから、あ、息子から手紙がきた。本当にどんなに(せつない?)だろうかと、僕は思っただけでもそのう、お父さんどうもすいませんと。
 僕達もジッとしとられんという、僕にも御造営がすむまでタバコは辞めますと手紙に書いて、色々書いてある。そのことを聞いて娘が今日はそのまた手紙をよこしておる。もう本当にこのくらいの修行は当たり前、今まで苦労と思っとったそれを聞いた途端にですね、それが修行と感じられるようになったら、有り難いっち、有り難いと思うてしかもこうゆうおかげまでになってきよるという体験。
 しかも生き生きと信心させて頂くようにならせて頂いたら、子供たちに言わず語らずの中にもそういうお働きが始まっておるということ。ほうそれけんじゃったばいの、今まで私はここにこう、あのう和泉という字を書いて頂いて、ここに置いたここじゃったが、しかもそれを見てから一段と感激するわけです。先生も神様もお見通しでございます。今日はこのごろから、久保山先生から御依頼を受けておって、あのうここにじろうがあ何百枚かの中に印刷されてあったんですね、石版で。
 それでそのうちのお父さんがそれを注文に行ってから今日、昨日ですか出来上がったから明日椛目に持っていってくれというて。人からならいくら頂いてきたのかですか、ちゅうたところが、もう俺が先、辞めとるもんじゃけん。その俺がお供えさしてもらわなきゃどうするかっちゆうて主人が申しました。そのお供えが持ってきてあっておる。もう本当にこれこそ、家の宝にでもさせて頂きますというて、そのお書き下げ頂いて白紙に、和泉と書いたそれをですね、ね、
 和らぐ心がですね、泉のように湧いてくる。どうでしょう。こうゆうおかげを頂いた。どうゆうなこと、どおなっても、どうゆう場合でもです、ね、心の底から湧いてくるしみ入るように、和らぎ喜ぶ心が湧いてくると、一切の不安がなくなってくる。そうゆう風に信心が段々高度なものになっていかなければならない。私がおかげを頂くためにも、修行もさることながら、ね、
 もっと神様が喜んで下さるようなこと、目指してお互いが生き生きとした修行でもさせて頂くといいです。ね、そのことのために本気で心を研こうぞと、本気で改まろうぞと、本気で限りなく美しくなろうじゃないかと言う様にです、おかげを頂いていく時、ね、今まで定九郎的な安心であったのが、ね。いわばあ助六的な、安心のおかげにも育っていくでしょう。いやところではない、人の上にもさしかけてやれるような、はぁあの人がニコニコしてござるというから心配はいらんと
 。例えば、周囲の不安までこう、一掃してしまうようなです、大きな安心を心に頂かせて頂くようなおかげ。しかもその安心がです、喜びがです、泉のように湧いてくるようなです、おかげを頂くことを目指して、お互い信心させてもらわなきゃならん。そう言う様なです、もう一段信心を進めてもよかろう、もう一段定九郎的なところから、その安心から破れ傘的な安心からです、( ? )時にです。
 神様がですさぁと言うてその、神様の問題をだして下さるような時がある。だからそれに気づかなかったら、いつまでたっても、ここから、おかげを頂けんということ。私どもそうゆう気でおると、神様もそうゆうような、働きを必ず私共の上に見せてくださろうということ。いうならばです、ね、暇な時だけは一生懸命朝のお参りの信心から、忙しゅうてもお参りさせてもらわなければおられないという信心。
 そこから忙しい中に、でなからなければ頂けないところの、力、体験、いうならば、氏子の用、神の用たしてやる、氏子の用神がたしてやるとおっしゃるような、おかげの頂ける場がです、広がってきたらどうゆうことになるでしょう。それこそ、おかげもまた、ね、湧いてくる泉のように、無尽蔵に頂けるおかげが、楽しみにお互い信心させてもらわなければいけんと思うんですよね。
   おかげを頂ければなりません。